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三河国の土豪である松平氏第8代当主・松平広忠の嫡男として、生まれた。幼少は今川氏や織田氏のもとで人質として過ごす。その後今川氏から自立を果たす後、信長と同盟を結び(清洲同盟)、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。信長、秀吉の死後天下分け目の決戦「関が原の戦い」に勝利し、1603年江戸幕府を開く。73歳で死去。死因は鯛の天ぷらによる食中毒説とも言われている。
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徳川家康 ゆかりの地を辿る |
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モデルコース |
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約4時間30分 |
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岡崎駅〜岡崎城・三河武士のやかた家康館〜大樹寺〜伊賀八幡宮〜法蔵寺〜妙源寺〜岡崎駅
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岡崎城:岡崎城の起源は15世紀前半まで遡ります。明大寺の地に西郷頼嗣(稠頼)によって築城されたのがそのはじまりです。その後、享禄3年(1530)に松平清康(家康の祖父)が現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになりました。
天文11年(1542)12月26日、徳川家康は、ここ岡崎城内で誕生しました。 |
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平幼少時に患った疱瘡(天然痘)の後遺症により右目を失明し、また派手で知られたため、後に独眼竜という異名がついた。失明以降、母親の最上義姫に姿が醜いと疎れ、弟だけが母の愛情を注がれたとされる。政宗は豊臣政権時代から、隙あらば天下を簒奪しようと何度も策略していたとされている。
1636年5月江戸で死亡。享年70。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。
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伊達政宗 ゆかりの地を辿る |
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モデルコース |
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約6時間30分 |
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仙台駅〜瑞鳳殿〜青葉城跡〜仙台博物館〜大崎八幡宮〜資福寺〜覚範寺〜伊達政宗歴史館〜松島(車窓)〜仙台市内
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瑞鳳殿: 寛永13年70歳で生涯を閉じた伊達政宗公の霊屋である瑞鳳殿は、公の遺命によりその翌年経ケ峯に造営されました。瑞鳳殿は、桃山様式の遺風を伝える豪華絢爛たる廟建築として昭和6年(1931)国宝に指定されましたが、昭和20年の戦災で惜しくも焼失しました。現在の本殿拝殿・涅槃門・御供所(資料館)は、昭和54年に再建されたものです。 |
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二刀を用いることで有名な二天一流兵法の祖。出生地について兵庫県、岡山県と複数の諸説あり未だ不明である。武蔵の著書『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利、16歳で但馬国の秋山という強力の兵法者に勝利、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、佐々木小次郎との「巌流島の決闘」である。晩年は熊本藩の客分として仕え62歳で亡くなる。
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宮本武蔵 ゆかりの地を辿る |
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モデルコース |
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約5時間30分 |
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熊本駅〜岩戸の里公園・霊厳洞・岩戸観音〜谷尾崎梅林公園〜武蔵塚公園〜西の武蔵塚〜島田美術館〜熊本駅
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霊厳洞;熊本市の西方、金峰山(きんぽうざん)山麓にある洞窟。うっそうと茂る樹木におおわれ、神秘的な霊場として知られる雲巌禅寺(うんがんぜんじ)の裏山にあり、洞窟内には岩戸観音(いわとかんのん)の名で知られる観音像が安置されています。晩年の5年間を熊本で過ごした宮本武蔵(みやもとむさし)が、この洞窟にこもって兵法書「五輪書(ごりんしょ)」を完成させました。 |
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徳川御三家の紀州藩の4男として生まれる。紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・家継の死により徳川将軍家の血筋が途絶えると、先々代の6代将軍家宣の正室である天英院に指名され、宗家以外からはじめて江戸幕府8代将軍に就任した。増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、目安箱の設置などの享保の改革を行った。
破綻しかけていた幕府財政を再建したことから江戸幕府中興の祖と呼ばれる。また米相場の安定に苦心したことから米将軍ともいわれる。
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徳川吉宗 ゆかりの地を辿る |
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モデルコース |
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約3時間 |
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JR和歌山駅〜和歌山城〜和歌の浦〜雑賀崎〜JR和歌山駅
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和歌山城:徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城であり、8代将軍徳川吉宗・14代将軍徳川家茂を輩出した。国指定史跡。かつては国宝の白亜天守が世界遺産の姫路城についで国宝に指定されていたが、戦災で焼失。和歌山城は見る角度によって趣が変化するなど面白みのある城である。 |
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