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鎌倉時代 | 室町・戦国時代 | 江戸時代 | 幕末時代・近世 |

室町・戦国時代 風雲時代の到来


本姓は源氏。家系は清和源氏の流れを汲む河内源氏の名門足利氏に嫡男として生まれる。 始めは鎌倉幕府に仕えるが、後醍醐天皇の綸旨を受けて倒幕を果たす。
後醍醐天皇の執った建武の新政は武士の支持を得られず、幕府設立の動きを見せる。これにより朝廷から討伐令を受け、南朝を京から吉野に追い、北朝として擁立した持明院統から征夷大将軍に任じられ、後の室町幕府を開いた。
尊氏は長く逆賊と評されており。没落と栄光を繰り返した尊氏の人生は日本史上最も壮絶なものと言っても過言ではない。


足利尊氏 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約4時間30分
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足利氏縁の寺巡り:京都駅〜天竜寺〜宝筐院〜等持院〜金閣寺〜相国寺〜銀閣寺〜京都駅

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天竜寺:1239(暦応2)年に吉野で不遇の中に崩御された後醍醐天皇を慰めるために、足利尊氏が高僧夢窓国師を開山として、嵐山を背景とする亀山離宮を禅寺にあらためたのがはじまりである。 天皇が幼少の頃を修学に過ごされた地に、敵味方の別なく南北両朝の戦死者の英霊を慰めること、「怨親平等の精神」もこの寺の開創の目的であった。





甲斐守護武田信虎の嫡男として生まれる。1541年クーデターを起こし父、信虎を駿河へ追放し甲斐武田家の当主となる。越後の上杉謙信と5度に渡り信州川中島で戦い、中でも1561の4回目の決戦は激戦で川中島の合戦として有名である。1572年上洛を目指し三河・遠江に侵攻。三方ヶ原で徳川。織田連合軍を撃破するも翌年、かねてからの病状が悪化し帰国途中の伊那の駒場で没した。
風林火山を旗印に、戦国最強の騎馬軍団を率い織田信長、徳川家康からもっとも恐れられた英傑でありながら軍事だけでなく政治家としても優れ、分国法として「甲州法度之次第」の制定や「信玄堤」とよばれる治水、交通制度の整備など民政に努めた。また甲州金として知られる金山開発をおこなった。
名言「人は城、人は石垣、人は堀、情けは見方、仇は敵なり」

武田信玄 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約6時間
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石和温泉〜恵林寺〜信玄堤〜甲斐善光寺〜武田神社〜積翠寺・・・要害城跡〜信玄公墓〜大泉寺〜甲府駅

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恵林寺:恵林寺は1330年、夢窓国師(むそうこくし)によって開かれ、戦国武将・武田信玄が菩提寺と定めた臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)の古刹です。
庭園は国の名勝に指定されています。美濃崇福寺から快川紹喜を招き天正4年(1576年)4月には、快川を大導師に信玄の葬儀が行われました。武田氏が滅亡した後に恵林寺に逃げ込んだ六角義弼の引渡しを寺側が拒否したため、織田軍による焼き討ちにあった。この際、快川紹喜が燃え盛る山門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と偈を発して快川紹喜は焼死したことで知られる。





越後国の守護代を務めた長尾氏に生まれ、後に主君上杉定実の義甥となる。兄の晴景の養子となって長尾氏の家督を継ぎ、上杉憲政から上杉姓と関東管領職を譲られる。周辺の武田信玄、北条氏康、織田信長らと合戦を繰り広げた。 生まれつきのカリスマ性を持ち、兄から呼びもどされて元服すると長尾家家臣だけでなく、豪族達の心もつかんだとされている。 自ら毘沙門天の転生であると信じて、軍事に関しては、越後の龍や軍神と後世で評されており、卓越したものがあった。謙信は天才型で、迅速な用兵と駆け引きの的確さから生涯殆どの戦で勝利をおさめたといわれる。死因について、過度の飲酒と、つまみの梅干による塩分の取りすぎによる高血圧が原因の脳溢血と言われている(雪の中、厠で倒れたと史料にあることも、死因が脳溢血だと考えられる一因である)。※謙信が女性であったという説も存在する。



上杉謙信 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約3時間30分
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米沢駅〜上杉神社・・・上杉記念館〜春日山林泉寺〜上杉家廟所〜塩野毘沙門堂〜米沢駅

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上杉家廟所:上杉家歴代藩主の廟所で、藩祖謙信公を中央にしてその両側に12代までの藩主の廟が並んでいます。廟は2代から8代までは社造りで、材質もケヤキを用い、柱は丸柱となっています。9代から12代までの廟は10代藩主鷹山公の考案による宝形造りで、材質もスギやヒノキを用い、柱は角柱と簡素になり、藩の財政事情がうかがわれます。





青年期は、尾張の大うつけと称されるが、今川義元率いる大軍団をわずか10分の1程の軍勢で打ち破るという、歴史上最も華々しい逆転劇と言われる、桶狭間の戦いで名を上げる。その後も自ら擁立した15将軍足利義昭を破って京都から追放し、室町時代を終らせ、元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた。
既存の権威や勢力(朝廷・仏教など)の否定、家柄門地によらない人材登用、新兵器であった火縄銃の活用などを通して戦国時代を終結  へと導いていったが、延暦寺焼き討ちなどの苛烈な政策から魔王(第六天魔王)とも恐れられた。最後は家臣の明智光秀の謀反(本能寺の変)により 自害。


織田信長 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約6時間30分
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京都駅〜安土城跡〜ハ見寺〜西光寺・・・織田信長の墓〜大徳寺総見院〜本能寺〜信長の首洗い井〜京都駅

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大徳寺総見院:総見院は、織田信長の菩提を弔うため秀吉が建立。安土桃山時代の天正10年(1582)、豊臣秀吉が主君信長の冥福を祈るために古渓宗陳(こけいそうちん)和尚を開祖として創建。信長の葬儀はここで盛大に行なわれたとされている。墓地には、信長以下、織田家の墓が建ち並ぶ。





尾張国中村の百姓として生まれ、織田信長に仕え、次第に頭角を表す。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、中国大返しにより京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破り、信長の後継の地位を得る。その後、大坂城を築き関白・太政大臣に任ぜられた。
意外なことに書に優れ、北大路魯山人は秀吉の書に対して、新たに三筆を選べば、秀吉も加えられると高く評価した。
徳川家康や秀頼の護り役の前田利家に後事を託して伏見城で没した(死因については胃がんなど諸説あり)。享年61。



豊臣秀吉 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約5時間
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京都駅〜醍醐寺・・・三宝院庭園〜豊国廟〜豊国神社・・・方広寺〜瑞泉寺〜豊臣秀吉妙顕寺城跡〜大徳寺〜西本願寺〜京都駅

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三宝院庭園:三宝院庭園は慶3年(1598)豊臣秀吉が三宝院を中心に開催した「醍醐の花見」に際して秀吉自らが基本設計、工事を進めたがその年の8月、秀吉は完成を見ずに死去するが醍醐寺座主義演准后(ギエンジュゴウ)指導により庭師賢庭が施工した。水の音が変化するように造られた三段の滝や池泉の亀島、鶴島などが設けられ、その背後には須弥山石組が連山形式で組まれている。その東側に名石藤戸石がある。桃山時代の華やかな雰囲気を伝え、特別名勝、特別史跡になっている。


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